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中村 忠 (なかむら ただし、1942年2月22日 - ) は、日本の空手家で世界誠道空手道連盟誠道塾会長。樺太真岡郡真岡町出身。日本大学理工学部建築学科卒業。国際空手道連盟 極真会館の発展に貢献し、大山倍達を支えた高弟で大山の後継者とも云われた、初代首席師範である。 == 来歴 == 東京の椎名町に移住してから宮城敬〔剛柔流始祖である宮城長順の子息である空手家。〕のもとで空手道を習い始める。高校1年生の時に大山道場へ入門。大山倍達以下、師範代である安田英治・石橋雅史・黒崎健時らの指導を受ける。先輩の岡田博文・大山茂・渡辺一久・大山泰彦・千葉真一・郷田勇三らと稽古を重ね、1962年5月6日に黒帯 (初段) を允許された。 自らの稽古の他に道場や米軍のキャンプ座間でも指導を始めた。アメリカ人に教えた際に彼らから不満が出ていた「昇級しても白帯のままで、茶帯になるまで帯の色が変わらなかった従来の仕組み」を、白帯と茶帯の間に青・黄・緑帯を入れ、昇級時にそれらを渡す仕組みに変更することに着手。それまで門下生が黒帯取得前に道場を辞めてきた問題を、昇級の結果を分かりやすくしモチベーションを高める事で、道場に生徒を定着させる意図があった。黒帯の段に金線を入れる事にも着手した〔『蘇る伝説「大山道場」読本』 日本スポーツ出版社、2000年、107頁。〕。この昇級システムはフルコンタクト空手の各流派で踏襲されている〔極真会館は、後に白帯と青帯の間に橙帯を入れた。〕。 1964年に大山道場の代表として黒崎・藤平昭雄らと共にタイ王国へ遠征。ルンピニー・スタジアムでムエタイ選手とムエタイルールで対戦し、2RKO勝利した〔。同年、大山道場は国際空手道連盟極真会館へと刷新され、1965年に大学卒業後、初代首席師範に任命される。門下生の増加や定着を良くするために、夜だけであった稽古を朝・昼・夜の三クラスに増やし、夏冬の合宿も指揮。これらは極真会館の公式行事となった。10月15日には百人組手を完遂した〔2日間で行ったため、公式記録から除外されている。詳細は百人組手を参照。〕。 1966年からニューヨーク市ブルックリンで指導を始める。門下生にはウィリアム・オリバー、チャールズ・マーチンらがいる。中村含め、彼らは劇画空手バカ一代の重要人物として登場している。中村はアメリカ各地の他にも、南米・ヨーロッパ・ニュージーランドへも行き、現地門下生の指導や演武を行った。演武の真剣白刃取りや氷柱割りは、極真会館主催のオープントーナメント全日本空手道選手権大会およびオープントーナメント全世界空手道選手権大会でも披露した。これら選手権大会で主審を務め、決勝戦も裁いている。 1971年に北米本部を設置し、初代北米委員長に任命される。1974年に大山倍達が「来年の第1回オープントーナメント全世界空手道選手権大会では、日本選手が必ず優勝する〔1972年にパリで開催された、空手の世界空手道選手権大会で全日本空手道連盟翼下の日本選手が団体戦が惨敗、個人戦は試合を放棄したことで「柔道に続き、空手よ、お前もか」と各種マスメディアで取り上げられた。これに対して大山倍達は「日本の空手は負けていない。近い将来、国際空手道連盟極真会館主催の全世界選手権を開催して、日本選手の強さを示す」と声明を発表していた事情があった。〕」と宣言したため、第1次アメリカ強化合宿として郷田勇三・添野義二・西田幸夫〔第1回オープントーナメント全日本空手道選手権大会から第6回まで連続出場し、第6回全日本選手権で4位に入賞した。現在は、国際武道連盟・極真空手 清武会の師範である。〕・佐藤勝昭・岸信行・佐藤俊和〔極真会館秋田支部所属で、第3回全日本選手権に初出場。第4、5回全日本選手権は共に3位、第6回全日本選手権5位、第1回全世界選手権5位とそれぞれ入賞し、第8回全日本選手権で念願の初優勝を遂げた。正拳突き・前蹴り・回し蹴りで戦い、闘将とも呼ばれた。第2回全世界選手権に推薦枠で出場。5回戦でウィリー・ウィリアムスと対戦。延長戦でウィリーの正拳突きと下突きの連打で一本負けをし、引退。現在は新極真会の秋田本庄道場の師範である。〕・二宮城光がニューヨークとバーミングハムに2か月間の遠征に来た。ニューヨークでは中村と大山茂が、バーミングハムでは大山泰彦が彼らを指導した。このメンバーの中で岸と二宮は帰国せず、それぞれ中村と茂のもとに留まり、修行を続けた。1975年に中村と茂のもとで第2次強化合宿が行われ、勝昭・俊和の他に新たに大石代悟・東孝らが加わり、中村は彼らを鍛えた。同年に開催された全世界選手権では主審・演武・ルール説明など運営に尽力した。 1976年に極真会館を離れ、世界誠道空手道連盟誠道塾を設立。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「中村忠 (空手家)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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